ピチェ・クランチェンと3人のドラマトゥルク
第二部 「タイは純潔/純血(pure)」ではない」

シェーン・ブンナグの映画作品《マンラム/デーモンダンサー》

本セッションのタイトル「タイは純潔/純血(pure)ではない」のもととなったのはブンナグの映画《マンラム》で、これはデーモンダンサーを意味する。この映画は、ブンナグがピチェと出会った2013-2014年に制作が始められた。その後の5年は特にタイの政治的な騒乱の時代で、クーデターや王位継承など様々なことが起こった。この間の出来事をブンナグはピチェとともに捉えて、家族の歴史や日々の政治的光景を映画の中で描いた。この映画では公私や美的なものが複雑に交差し、タイ社会の急激な変化が感じられる。この映画を踏まえてこのセッションで考えていきたいことは、「タイネス」つまりタイらしさに対するイデオロギーである。タイらしさとは一枚岩であると言われてきたが、それは実は作られたものであり、どのような構築物なのか、紐解いていきたい。ブンナグはハーフで、本人曰くタイ人のようには見えないが、父親はタイのパスポートを持っている。そうした事情があり、自分自身タイ人として純血であるというアイデンティティーを持たない。

タイの伝統舞踊と仮面とピチェのアンマスキング

タイの伝統舞踊コーンでは通常ダンサーはかなり大きい面をつける。仮面を被ることで、ダンサーの人間らしさや人格が見えなくなり、シンボルになる。それに加えて、音楽、演出、衣装など様々なルールに従わなくてはならない。ピチェの作品においては、これらの要素が解体され、創造的に新しい形に作り替えられている。これは伝統舞踊コーンの体制側にとっては、反抗的なことである。なぜなら伝統舞踊において、その体制は維持されなくてはならない文化的レガシーであり、したがって「純潔」であることが極めて重視されるからである。

ブンナグは映像を作っているとき、「これはタイの独自の文化なのか?カンボジアと違うのか?」といったような境界線をめぐる質問を多く投げかけられた。後述するように、以前は権力それ自体があまり統一的ではなく、境界線、国境というものはなかった。したがってピチェにとって、タイとは純血/純潔ではなく、混合的なものである。一方でタイという国家は、今や国境という歴然とした境界線を引き、そこに「仮面(ヘルメット)」を被った兵士を立たせた。また一枚岩の「タイらしさ」という概念を作り上げ、それを国家支配のツールにしようとした。ピチェは、この人工的な「タイらしさ」からコーンの重い仮面を連想し、この仮面を自分の作品の中で取り外すことで、純血/純潔ではないタイの姿を表現しようとした。

タイらしさの形成と伝統舞踊コーン

タイの文化はシャムから始まったと考えられる。1939年にタイという国名に変わった。シャムという国は、非常に複合的な文化を持ち、18世紀に建国されて以来、タイ、モン族、中国、インド、ポルトガルなど様々な伝統が通い合い、貿易都市を生み出していた。それが突然、「わたしたちは複合的ではありません、一つのものです、タイです」とストップがかけられた。とくにバンコクはデーモン/魔王的な存在で、〔文化の多様性など〕すべてを食べ尽くしてしまう。〔コーンがモチーフに使うラーマ王の物語では魔王ラーヴァナ(タイ語ではトッサカン)が登場することへの比喩〕ピチェが作品の中で踊る魔王はこうしたタイの状況を象徴していると捉えられる。ピチェはこうしたタイらしさと伝統舞踊コーンについて次のように発言する。

ピチェ「1939年という節目の年があって、そのあたりの時代から、またそれ以前には1932年というタイミングが民主化のタイミングでした。この時代にタイらしさであるとか、純血/純潔なタイという概念が作られました。そして、1932年以降13年かけて国立舞踊学部でコーンが教えられました。このように時系列に歴史を追うことによって、その瞬間に何が起こったかが理解できるようになると思います。タイ政府はこのとき、一つの方向性を定め始めました。タイを近代化させて、近代国家としてのタイを一つのものとするために、タイらしさというコンセプトを作ったのです。したがって、コーン自体が政府のプロパガンダの一つだったのです。」

ピチェのNo.60という作品は、59ある伝統舞踊コーンの型を分析し、そこに新たな60番目の型を付け加えるという意味がある。この作品の中で、宮廷様式のコーンを解体するというプロセスがあり、さらに、ピタコーン〔タイ東北部イサーン地方の都市ダンサイで行われる民衆のお祭りで《Dancing with Death》にも取り入れた〕のダンスや南部のノーラー〔音楽や歌、舞踊、芝居、儀礼、呪術などを含む伝統芸能〕のダンスも取り入れる。このプロセスについてピチェは以下のようにコメントする。

ピチェ「タイで伝統的な舞踊家になるときは、必ずコーンを学ぶわけです。それは、学校や、師匠から学びます。コーンはバンコクのダンスで、タイらしいバンコクのダンスであるコーンだけが正統な伝統舞踊であると位置付けられています。そしてすべてのダンスの型がコーンから派生しているということになっています。そういった情報があるわけです。そしてある日、わたしはコーンにまつわる全ての素材を取り払いました。そして、コーンが身体言語の根本にあるわけではないことに気づいたのです。そこでわたしは中央から離れ、東北部、南部に行って、その源流となる動きを探しにいきました。タイの南部や東北部で始まった最初の動きがどのようなものであったのか、探求したのです。」

ピチェは一時期、憑依を伴うシャーマニズムにも関心を抱き、ダンサイという東北部の都市で24時間踊り続けるシャーマンを2年ほどリサーチした。そこで、どのように自分の思考や脳を解放できるのか、動きを解放できるのか、シャーマンたちは踊り続けて動き続けて、エネルギーを保ち、他の存在に変容していくことができるのかといった問いを考え続けた。

以上のことから、ドラマトゥルギーは、単に作品制作だけでなく、どのように権力が中央に集中し、その権力が一枚岩の文化を作ってきたのか暴くことにも関わっている。

伝統舞踊の民主化とNo.60

コーンの基本的な訓練にはヒエラルキーがある。師匠がいて、弟子がいて、一つ一つ段階を経ていかなければならない。つまり、一つのレベルをこなしてはじめて、次の動きに移行できる。このように動きの修得には大変な時間がかかるため、コーンを一般に日常生活を営んでいる人々に〔民主的に〕広めていくことは難しい。ここからピチェはNo.60のアイデアが浮かんだ。全ての動きを脱構築し、誰しも使うことができるような新しい動きの基本言語を作るというアイデアである。そうすれば人々は自分の人格に基づいて振付を作り出すことができ、自分自身を新しいダンスの方法へと解き放つことができる。

フクエンはピチェに初めて会った1995年に、ピチェが伝統舞踊を譜面化しようとしていたことを思い出しながら、ピチェが常に伝統舞踊を捉えようとしていたことを指摘する。したがって、コーンの59の型の後に位置付けられるNo.60を作ろうとするピチェの欲望は自然なものであり、ピチェはNo.59の後がいったい何かを考え続けていた。その中でタイの政治がドラスティックに変化し、ピチェは政体がいかに変化しようとも自分たちは自由でなくてはならないという結論に辿り着いた。No.60とは、個々人のジェスチャーや即興から生まれてくる動きを並べていくことである。ピチェのなかでこうしたダンスと権力が拮抗する対話があったからこそ、No.60のドラマトゥルギーが生まれた。

本テクストは各セッションの内容を要約し、重要な発言は抜粋した。セッションは全て動画で公開されているため、必要な場合は適宜参照されたい。

◯動画
第二部 ピチェ・クランチェン、タン・フクエン(ダンスドラマトゥルク)、シェーン・ブンナグ(映像作家)「タイは純潔/純血(pure)」ではない」
https://vimeo.com/661580983/7bacd21b47

ピチェ・クランチェン(振付家/ダンサー、タイ)

リム・ハウニェン(アジアン・ドラマトゥルク・ネットワーク 設立者/パフォーマンス作家/ドラマトゥルク/ダンス研究者、マレーシア/オーストラリア)

タン・フクエン(ドラマトゥルク/プロデューサー/キュレーター/台北芸術祭芸術監督、シンガポール/台湾)

シェーン・ブンナグ(ヴィジュアル・アーティスト/映画作家/ライター、タイ)

中島那奈子(ダンスドラマトゥルク/ダンス研究者、日本)

お問い合わせ

Contact