まえがき(序)

富田大介

「Pacific / Pacifique」は語源的に「Peace / Paix (平和)」とつながる。この〔2015年の集大成的な〕作品Dance Song Music『PACIFIKMELTINGPOT』は、舞台の両はしに分かれて対面する人たち――太平洋の島々から寄り集まった、体格も肌の色も言語も異なる人たち――が、ボールを向こうの相手に転がすことからはじまる(「ボール(balle)」 はフランス語で「銃弾」をも意味する)。人間は誰しもその身のうちに赤色に近い血液を有しているが、皮膚の色や言葉などの外表的な、また民族や国籍などの一般的な違いを強調して争う。自分たちの属する島々がいかに海の底で通じていようと、目に映る陸上や海上の囲いを一義に争う。ショピノは本書の自伝のなかでいう。芸術的な想像力とは、それら表面上の、一見して離れた物事のうちに、内奥の響き合う関係を捉える力であると*。

* 同様のことを、ボードレールの想像力について整理したクロード=ピエール・ペレがいっている(Cf. Claude-Pierre Pérez, « L’imagination Baudelaire » dans Chapitre I, Les Infortunes de l’imagination, Saint-Denis: Presses Universitaires de Vincennes, 2010, p. 37-57 )。また、本書の自伝でショピノが語るこのことは、夭逝の歌人笹井宏之の言葉と強く響き合うように思われる。第一歌集の「あとがき」から。「療養生活をはじめて十年になります。〔中略〕短歌をかくことで、ぼくは遠い異国を旅し、知らない音楽を聴き、どこにも存在しない風景を眺めることができます。あるときは鳥となり、けものとなり、風や水や、大地そのものとなって、あらゆる事象とことばを交わすことができるのです。短歌は道であり、扉であり、ぼくとその周囲を異化する鍵です。キーボードに手を置いているとき、目を閉じて鉛筆を握っているとき、ふっ、とどこか遠いところへ繋がったような感覚で、歌は生まれてゆきます。それは一種の瞑想に似ています。どこまでも自分のなかへと入ってゆく、果てしのない」(笹井宏之『ひとさらい』書肆侃侃房、2011年、102〜103頁参照)。

(略)

私感では、この芸術的想像力は個性への愛によって創作に活かされる。殊、PMPに関していえば、ショピノは2015年のクリエイションがはじまる前に「振付ける」ことを確言したが、それは「カナク」や「日本人」に回収しえないメンバーの個性とこれまで以上に向き合うこと、その特異な個性にふれることを意味する。彼女は本書の自伝のなかで、アーティスト/振付家の仕事は、自然が特定の人に残した輝き(奔放な野性)を見抜き、それを一般の人にも親しみやすいものにすべく手懐【ルビ:てなず】けることだといっている。この語「なつかせる(apprivoiser)」は、よく知られているように、サン=テグジュペリの「Le Petit Prince」(『ちいさな王子』野崎歓訳)における鍵語であり、その意味するところは「きずなを作る」こと、「お互いが必要になる」ことである**。

** 「〔前略〕『なつかせる』ってどういう意味なの?」「それはね、つい忘れられがちなことなんだよ。『きずなを作る』という意味なんだ」「きずなを作る?」「そうだとも。ぼくにとってきみはまだ、たくさんいるほかの男の子たちとおなじ、ただの男の子でしかない。ぼくにとっては、きみがいなくたってかまわないし、きみだって、ぼくなんかいなくてもいいだろ。きみにとってぼくは、ほかのたくさんいるキツネとおなじ、ただのキツネでしかない。でも、もしきみがぼくをなつかせてくれるなら、ぼくらはお互いが必要になる。きみはぼくにとって、この世でたった一人のひとになるし、きみにとってぼくは、この世でたった一匹のキツネになるんだよ……」(サン=テグジュペリ、野崎歓訳『ちいさな王子』光文社古典新訳文庫、2006年、105頁参照。Cf. Antoine de Saint-Exupéry, « Le Petit Prince » dans Œuvres complètes, t.II, édition publiée sous la direction de Michel Autrand et de Michel Quesnel, avec la collaboration de Paule Bounin et Françoise Gerbod, Gallimard, “Bibliothèque de la Pléiade”, 1999, p. 294)。ちなみに、ショピノはPMPを語るときに、「子どもから大人まで楽しめるシンプルにして深い作品」として、この『ちいさな王子』を引き合いに出している。

「PACIFIKMELTINGPOT」という共同体
-多声的な包容の時空間へ向けて

高嶋慈

このように〔2013年の『PACIFIKMELTINGPOT / In Situ Osaka』でのプレゼンテーションにおいては〕、それぞれの地域・文化圏ごとに提示された身体性の差異は分かりやすく、また、下半身のバネや跳躍力など身体そのものの強度、アカペラの力強い歌唱や即興的な掛合い、身体の動きと一体化した音楽のリズムはとても魅力的だったが、反面、こうしたプレゼンテーションの仕方は多文化主義的な予定調和に陥りがちでもある。「多様性や差異を認め合って尊重しよう」というPC(= politically correct:政治的に正しい)の確認作業に落ち着いてしまいかねないのだ。全員が入り混じっての即興的なセッションを挟んで、公演の終盤は、観客も巻き込んで楽しく踊る祝祭的な時間となったが、ハッピーでピースフルな結末が「物語」として用意されていたことに違和感を覚えずにはいられなかった。

誤解のないよう付言すれば、多文化主義それ自体が悪いのではなく、そこには、欧米の振付家/非欧米地域の出演者という関係の非対称性がはらむ搾取の危険性に加えて、消費資本主義と(ダンスを含めた)アートのグローバルな市場のなかでは、ローカルなものの差異化が「記号」として固定化され、消費・流通可能な「商品」に仕立てられ、あるいは観光資源化されていく危険性があるからだ。多文化主義的な視点に立ち、文化人類学的なアプローチで作品制作を行う作家は、ダンスや演劇といった舞台芸術だけでなく、現代美術においても、90年代以降一つの動向として見られるが、その功罪は多々指摘されてきた。

また、上述した日本人出演者三名によるプレゼンテーションで感じた違和感は、たんに他の二地域の出演者と対比的に感じられたフラットな身体の軽さだけにとどまらない。これがごく普通の、独立したトリオ作品として提示されていれば、ことさら「日本人の身体」を意識して見ることはなかっただろう。しかし、ナショナリティや民族性といった同化/排除の枠組みに入れて身体を眼差してしまうような力が、あの場では働いていた。もちろん、個々の身体はニュートラルで透明なものではけっしてなく、文化的・社会的・歴史的なさまざまな負荷を背負ったものとして、既に政治性を帯びている。一方で、固有性や差異を認めながら、それを「ナショナリティ」「人種」「民族」「ジェンダー」といった枠組みに還元せず、個々の身体的な対話の継続によって、共通項を探るとともに境界線を流動化させ、真に「メルティングポット」な状況を生み出すことはいかに可能か。それは、たんにダンス作品としての完成度をめざす到達点であること以上に、私たちが現実に身を置いて暮らす社会に対する、批評的提示となるだろう。そこへいたるには、二年後の『PACIFIKMELTINGPOT』の上演を待たねばならない。

〔 〕は抜粋者補足

以下の文献より抜粋:
富田大介編『身体感覚の旅―舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』大阪大学出版会、2017年、「まえがき」12〜14頁;「『PACIFIKMELTINGPOT』という共同体 ―多声的な包容の時空間へ向けて」33〜34頁。

富田大介

追手門学院大学社会学部教授。Ph.D(神戸大学)。舞踊や演劇など上演芸術の研究・教育・実作にたずさわる。主な企画・出演に「『RADIO AM神戸69時間震災報道の記録』リーディング上演」(神戸大学百年記念館)、『PACIFIKMELTINGPOT』(鳥の劇場、ランス国立舞台他)、『The Show Must Go On』(彩の国さいたま芸術劇場)、『Cornucopiae』(ポンピドゥーセンター, モンペリエ・オペラ座他)、論文に「土方巽の心身関係論」(『舞踊學』35号)、「P・ヴァレリーにおける運動的陶酔のメカニズム」(『美学芸術学論集』6号)、共著に『待兼山少年:大学と地域をアートでつなぐ《記憶》の実験室』(大阪大学出版会)などがある。https://researchmap.jp/dtomita

高嶋慈

美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。ウェブマガジン「artscape」(https://artscape.jp/)で現代美術や舞台芸術に関するレヴューを連載。企画した展覧会に、「Project ‘Mirrors’ 稲垣智子個展:はざまをひらく」(2013年、京都芸術センター)、「egØ-『主体』を問い直す-」展(2014年、punto、京都)などがある。

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