会話

スコット・デ・ラハンタ他

ダイアナ・シオドレス(Diana Theodores): アンドレ・レペッキ(André Lepecki)、ハイディ・ギルピン(Heidi Gilpin)、ヒルデハード・デ・ハウスト(Hildegard De Vuyst)の 3名のダンスドラマトゥルクにお越しいただいているので、ダンスドラマトゥルクとしてどのようなことをされているか、なぜそれをするに至ったのかについてお話しいただきたいと思います。

ハイディ: 文化批評誌の編集者を務めていたとき、ウィリアム・フォーサイス(William Forsythe)が読んでくれていて、もっと理論的概念に沿って議論をすることを持ち掛けてくれました。私は彼の作品を拝見し、彼が舞台上で実際にそのような概念を表現しようとしていることが分かりました。そこから尽きることのない会話が始まり、最終的に彼のドラマトゥルクを務めるに至りました。私がどのようなことをするかというと、言語、数学、科学を始めとするアイディアを別の形に翻訳し、振付家とわたしが互いに共通してもつこだわりが合わさる領域を創出していると感じます。ときにはダンサーたちのために情報知識の束(テクスト、イメージなど)を用意しますが、それはざっと見てもらうためのものであり、教条的に理解しなければならないものではありません。他の振付家たちとも仕事をしてきましたが、振付家によって毎回異なります。

アンドレ: 私はリスボンで色々と出入りしながらダンス界の人たちと会話をしていたら、その人たちから私も何らかの形でもっと携わるべきだと声をかけてもらいました。当初は名のない作業でした。それがある時点で制作体制の一員となり、報酬を受け取るに際してなどに、自分がやっていることを名付ける必要が出てきました。私の場合、既に一緒に仕事をしていたメグ・スチュアート(Meg Stuart)をブルーノ・フェルベルト(Bruno Verbergt:ベルギーの「クラップストゥック・ フェスティバル〈Klapstuk Festival〉」のディレクター)がプロデュースすることになった際に、ブルーノに「あなたはドラマトゥルクです」と言われ、「はい、分かりました。私はドラマトゥルクです」と言いました。ドラマトゥルクという役割において、何をするかですか?創作プロセスの初期段階にメグに頼まれるのは、絶えず稽古場にいてほしいということです。その後にかなり話し込みます。私の目から見て現場では何が起こっていると思うかと彼女からは尋ねられ、私は「比喩の打ち上げ」と自分で称する、あらゆる関係性やつながりなどを一挙に伝えます。プロセスの後半に進むにつれて協働しながらまとまりをもたせていきます。

ヒルデハード: 私は自分自身を最初の観客として捉え、「この作品は私にどのように作用しているか」と自身に問います。図書館に足を運んで情報を取ってくるようなことはしません。なぜかというと、それを使うことはないからです。ただしアンドレも述べているように、創作プロセスは最初は大いに開かれており、たくさんの即興やタスクが課せられ、ソロ創作の指示がなされ、そこから密に協働して作品全体を構築します。様々な振付家や演出家と仕事をしてきましたが、自分がどのような形でも必要とされないとき、何か欠けているものを私が具体化しなくて良いときこそ、最もうまくいっていると感じています。なぜかというと私が必ずしも必要とされないとき、私は自由に遊べる場に立つことができるからです。

スコット(Scott deLahunta): 1999年にアムステルダムとバルセロナで開催された「振付に関する会話(Conversations on Choreography)」の両方のセッションで、ドラマトゥルクとドラマトゥルギーの違いについて協議し、ドラマトゥルギーがあってもドラマトゥルクがいない状況があり得ることを議論したことを思い出します。振付家のドラマトゥルギー的なビジョンは、パフォーマーが振付家と一般の人々の間に橋を架けたとき初めて明確になると、バルセロナのゲスト参加者でダンスグループ「マル・ペロ(Mal Pelo)」のマリア・ムニョス(Maria Muñoz)は発言しました。

アンドレ: 今日の現代舞踊のダンサーたちは素材を作り、場面について考え、自分で振付をしなければなりません。ですので、ダンサーたちもドラマトゥルギー的な意思決定をしています。ダンサーたちが振付に関する決定を行い、時によっては場面を解決するためのアイディアを出します。

ヒルデハード: アラン・プラテル(Alain Platel)の作品では、まずダンサーを選ぶところからドラマトゥルギーがかなり介入します。なぜなら彼はダンサーたちが持ち込むもの、ダンサーたちのそれぞれの歴史に重きを置いているからです。彼は違いに取り組むため、様々な生/性のあり方、宗教、人種、文化的背景を必要とします。それらが多くの素材を持ち込んでくれるからです。制作開始前に多くのドラマトゥルギーを取り入れて、そこから徐々に様々なドラマトゥルギーを適用していきます。

アンドレ: 振付家が協働したいと思うドラマトゥルクをみつける作業は、ある特定のダンサーたちとは仕事をし、他のダンサーたちは起用しないということと共通することに気づきました。スコットが話したように、メグ・スチュアートとビデオアーティストのギャリー・ヒル(Gary Hill)とのコラボレーションにドラマトゥルクの介入はありませんでした。なぜなら必要がなかったからです。ギャリー・ヒルは優れたコミュニケーターで、彼の振付への介入の仕方を見る限り、私がコラボレーターとして入り込むことは適切ではありませんでした。ただし状況はその都度異なります。メグは最新の作品でアン・ハミルトン(Ann Hamilton)という別のビジュアルアーティストと仕事をしました。そこではドラマトゥルクの介入の余地がありました。 

イザベル(Isabelle Ginot): 私にとってドラマトゥルクの役割は、何か「他のもの」になるということに過ぎないように思えます。だからビジュアルアーティストか作家かひょっとしたらひとつのテクストの存在さえあれば、ドラマトゥルクがいる必要はないかもしれません。そういった場合、ドラマトゥルギーの余地はなくなったのではと自分に問う必要があります。この「他のもの」はドラマトゥルクと呼ばれなくても良いのかもしれません。たとえば、「他のもの」がダンサーであるとしたら、振付アシスタントと呼んだり、どういう名でもよいのですが、その場合、もはやその存在はドラマトゥルギーではないのではないでしょうか?

ミリアム・ファン・イムショート(Myriam van Imschoot): 振付家とドラマトゥルクの関係や、昨日話した創作プロセスで孤独になることについて考えています。創作している人は、大勢のダンサーや舞台美術家などといった人々に取り囲まれていても、ともかく誰かしら話し相手が必要と感じていると想像することができます。それは社会性に関わるニーズなのでしょう。もうひとつのニーズはスキルに関わり、何らかのスキルが必要とされるのですが、伝統的なドラマトゥルギーではそれが知的スキルもしくは知的能力と結びついていました。しかしこのことはまた、振付家の身体を必要としないスキルがあること、そこにおいて役割分担がなされることを示しています。

イザベル: ドイツやベルギーなどでは、ダンスとドラマトゥルギーの関係性が進化しているようですが、フランスでは未だに進展しておらず、その理由について考察しています。もしかしたらフランスのダンスは、言葉を使わずにして十分に表現力のある別の形の劇場作品として認識されてきたからかもしれません。それは演劇のなかで求められているが、演劇は伝統的に文章と結びついているため、なかなかうまくいかずにあがいてきました。そのためフランスのダンサーたちは劇場空間の位置付けのなかで、ダンスに意味を持たせるという考えを保持する必要がありました。その関係で「作家映画(cinéma d’auteur)」のように、振付家は作品全体の作家であり責任者であり、作品の意味付けに対して責任を持つと考えられてきました。ここでいう意味付けとは連想、コラージュ、織りなすようにつなぎ合わせること、 対照、混ぜ合わせることなどによってなされ、それをフランスでは振付と呼びます。これまで振付家が別の人に助けを求めて入ってもらうことはありませんでした。フランスのダンスでは、ミリアムがいうような振付家の働きと身体を二つに分けることはありませんでした。

アンドレ: 振付師の身体が何らかの形で分かれているという概念は非常に興味深いので、後でそれについても話したいと思います。お話を聞きながらドラマトゥルクと知性の関係に関して、メグがバリシニコフ(Baryshnikov)のホワイト・オーク・ダンス・カンパニー(White Oak Dance Company)の振付を依頼されたときに、ドラマトゥルクを務めた経験を思い出しました。それは非常に苦しい経験だったのですが、ダンサーとの間に知性が交わされることがなかったことが原因のひとつでもありました。そのため、知識人としてのドラマトゥルクの役割が私に重くのしかかってきました。知識人としての能力を発揮するためには、書いてリサーチをして翻訳などを行う必要があります。

ヒルデハード: アラン・プラテルの作品と、アンドレが話してくれたメグ・スチュアートの作品について理解するところ、作品の知的責任はグループ全体で共有されるものだと思います。それはドラマトゥルクの立場や役割に限定されるものではありません。

アンドレ: 知性とドラマトゥルクの関係に関しては、知識の特権に関わる政治的側面もあります。数年前に3人の欧州のプロデューサー集団がポルトガルの振付家ヴェラ・マンテロ(Vera Mantero)に、グループ作品の制作を依頼しました。彼らは欧州北部出身のドラマトゥルクと仕事をすることをヴェラ・マンテロに依頼しました。マンテロは、「なぜわたしにドラマトゥルクが必要なのか、なぜ欧州北部のドラマトゥルクなのか」という疑問を呈しました。これは明らかに、〔振付家に〕知識や情報が不足している、ないし知識や情報が不足しているとみなしたために、その穴を埋めるために、プロデューサーがドラマトゥルクを求めた事例です。

スコット: 一般の人々、または演劇ドラマトゥルクの考え方に慣れ親しんだプロデューサーが、ダンス・プロジェクトにおけるドラマトゥルクの役割に対して先入観を持っている理由は分かります。バルセロナ会議に参加した振付家の アレクシス・ユーピエール(Alexis Eupierre)が、地元ラジオ局でこの会議についてインタビューを受けたときに、そのことが明るみになりました。そのとき、ダンスドラマトゥルクの目的は「観客に理解しやすくなるように」することかという質問を彼は受けました。歴史的には、ある時代と場所の演劇ドラマトゥルクの役割はかつてそうだったかもしれませんし、または未だにそうかもしれません。ただ私が考えるダンスドラマトゥルクの役割とは、観客にダンスの解釈や説明を提供するものでは決してありません。

アンドレ: 観客が芸術を読み解けるようにするという問題は、じつに複雑です。議論のためにヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin)を取り上げてみましょう。彼は、芸術は決して一般の人々のために作られるわけではなく、芸術の力というのはまさしく観客のために作られないところにあると述べます。解釈や説明に関してはそのように問題視されます。私が一緒に仕事をしているフランシスコやメグ、ヴェラにとって、観客は目に見えない幽霊のような存在です。常に存在しており、常に私たちのもとへと戻ってきては、これは明確か、これはどのように解釈されかねないかなどと私たちに自問させ続けます。問題は私たちが常に外れたところにいるため、自分たちにとって観客、人々というのがはっきりとしていないのです。先日ミリアムが教えてくれたのですが、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル(Anne Teresa De Keersmaeker)やローザスなどと仕事をしてきたブリュッセルのドラマトゥルクのマリアンヌ・ファン・ケルクホーフェン(Marianne van Kerkhoven)が最近の論文で、稽古でのミクロ・ドラマトゥルギーに対して、社会的なマクロ・ドラマトゥルギーの必要性を比較しています。

ダイアナ: それはドラマトゥルクの役割の非常に拡大的な捉え方ですね。ここで話し合われた主な点をいくつかまとめたいと思います。1. ダンス作家とドラマトゥルクの関係性には政治的な側面がある。2. 演劇ドラマトゥルギーにはダンスとの関係を様々な形で捉える伝統がある。 3. ドラマトゥルギーの実践には見ること(seeing)と観ること(watching)、たくさん話すことと時には書くこと——つまり言語(language)と言説(discourse)に従事すること——が含まれる。4. ドラマトゥルクはパフォーマンスを整理し、順序立て、つなぎ合わせる手助けも行う。これはあくまでも部分的な概要でしかありません。ここでまだ話されていないと私が感じるのはメグ・スチュアートの場合、ダンスドラマトゥルクが稽古場に入るとき、動きやジェスチャー、静止、身体の歪みに対して特定の見かた(seeing)をしようとするのか、あるいは特定の目線を投じる(looking)のかということです。おそらく一般的には、振付家とドラマトゥルクの間の関係において、見ること(seeing)は話すことに先立ちますよね?見るということ(seeing)に特別な方法はありますか、または新しい形の目線の投げかけ方(looking)はありますか。

アンドレ: 「見る(seeing)」という話自体に問題があると思います。ダンスドラマトゥルギーではただ目を使うだけではなく、自分の身体構造のすべてを再配置することだと思っています。私が稽古場入りをして新しい作品の制作を始めるとき、身体構造の問題は非常に重要となり、文字通りの課題となります。私たちはダンサーの身体、振付家の身体、作品の身体について語ります。しかし、ドラマトゥルクの身体とは何でしょうか。ドラマトゥルクは稽古場の動力学のなかで、自身の身体をどのように適応させるのでしょうか。そもそも私はドラマトゥルクは身体構造上、「外部の目線」に限定されないと考えます。これは言及に値する肝心な点だと思います。「外部の目線」というのは、ダンスドラマトゥルクの位置付けをよく表す表現であり(またとても興味深いことに他のドラマトゥルギーではさして注目されていません)、デカルトが『省察』を書き上げる前に、死体の目の実験をして、死した目を通して知覚について理解しようと試みたことを思います。まるで知覚機能が身体から切り離されていて、身体や精神、魂、情熱といった他のものから独立しているかのようなアプローチです。そこで「ダンスとはイメージに基づく芸術形態なので、目に頼る必要がある」と言われるとします。それに対する私の回答は当然、はい、もちろん自分の視野を用いなければなりません。ただ、ここで問われるのは、自分の感覚をどのように駆使したいと思うかです。私が稽古場に入り、目の前で展開される作業に視覚的な批判や発展が求められるとき、当然、私は目を携えて「入る」ことが求められます。ただ、そこで私は目をつくり直すことができます。たとえば、私は目を使って聞くことができます。目を使って舐めて、場面を味わうこともできます。まとめると、次のようになります。私は「外部の目線」から逃亡してドラマトゥルクとして稽古場に入ります。ダンサーや振付家と同様に私は(新しい)身体を見つけるために入ります。それがダンスドラマトゥルクとして最も重要な仕事であり、感覚の生成の可能性を絶えず探求することなのです。

以下の文献より抜粋:
The excerpt from "The Conversation," Dance Theatre Journal, Dance Dramaturgy: speculations and reflections, ed., Scott deLahunta, Vol. 16 No. 1, 2000, pp. 20-25. (The whole article is archived at http://sarma.be/docs/2869)

翻訳:辻井美穂

スコット・デ・ラハンタ。「Conversations on Choreography」オーガナイザー。インディペンデント研究者。パフォーマンス専門講師。「Writing Research Associates」メンバー。

ハイディ・ギルピン。「Conversations on Choreography」アムステルダム開催のゲスト参加者。香港大学准教授。ウィリアム・フォーサイス(William Forsythe)のドラマトゥルクを務める。

イザベル・ジノ。「Conversations on Choreography」コアグループメンバー。ダンスライター・研究者。パリ第8大学准教授。

ミリアム・ファン・イムショート。「Conversations on Choreography」コアグループメンバー。ルーヴェン大学(ベルギー)ダンス評論家・研究者・理論家。

アンドレ・レペッキ。「Conversations on Choreography」コアグループメンバー。メグ・スチュアート(Meg Stuart)、ヴェラ・マンテロ(Vera Mantero)他のドラマトゥルクを務める。米国在住のダンス評論家・理論家。

ダイアナ・シオドレス。「Conversations on Choreography」コアグループメンバー。ダンスライター・研究者。Dartington College of Arts(英国)演劇学研究員(Reader)。

ヒルデハード・デ・ハウスト。「Conversations on Choreography」アムステルダム開催のゲスト参加者。アラン・プラテル(Alain Platel)『Ballet C. de la B. 』のドラマトゥルクを務める。

※略歴は2000年当時のものである。

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