エランシー(さまよう)という仕事:ダンスドラマトゥルクに向けた7つの分散メモ

アンドレ・レペッキ

6つ目のメモ

数え切れないほどのアイディアと数え切れないほどの〔アイディアの〕実現化の間でさまよう漠然としていながらも厳密なドラマトゥルク業の分野では、パフォーマンスの各要素に対して、微妙なアプローチを用いて文脈を捉えることで、明確性を見出すことができる。そこでは不可欠な要素(imperative)に必ず注意を払わなければならない。それを内在的不可欠性(immanent imperative)と呼ぼう。それは状況の中の周縁的または取るに足りないように思えることも含めて、すべての要素に注意を傾けることである。たとえば、一人のダンサーの特定の身体とその個々の動き方や存在、気質の様態に注意を傾ける。もしくはジェスチャー、ないしステップ、ないしフレーズの個別性に注意を傾ける。さらに、そのジェスチャー、ないしステップ、ないしフレーズは、それ自体が持っているロジックに従っていると同時に、先行し、後続し、併置されるジェスチャー、ステップ、フレーズとの様々な連関性すべてを考慮に入れたロジックにも従っている。もしくは、ある物体の素材的な構成や機能性だけでなく、その呼び方から派生する詩的な広がりにも注意を傾ける(例えば、ある物体がどのように単なる道具として、あるいは単なる器具として機能するのかということは、言葉の域においてその物体の呼び方がどのように機能するのかとは切り離せない。この言葉の域とは、聴覚的なイメージのサブリミナルではあるが具体的な共鳴する域、あるいは、意味するものを創造しうる)。それらの要素がときには凝集し、ときには散らばり、ときには衝突しあいながら、どのようにして収まるかをマッピングするのがドラマトゥルクの仕事である。ドラマトゥルクは幾重もの力を特定し、可能性を与えることで、それらの力が自ら線を描けるようにする 。それがエランシー(さまよい)の作用であり、「漠然としていながらも厳密」であるエランシーの仕事そのものである。

物体、ダンサー、振付家、ドラマトゥルク、その他すべての人がアクションとインタラクションを形成し、すべてがアクションとリアクションを行っている。それを通じて、そこからさらに、その相互活発な域からテクストよりもテクスチャーが織り成され、織り交され、縫合される。そこで皮膚、振動、ムードが表面に姿を現す。それらの要素は、自発的に、または数か月かけて結び付いて収まってゆく。

さまよう。さまよう。さまよう。

分からない。分からない。分からない。

やる。やる。やる。

それでも、まだ分からないという立ち位置から取り掛かること以上に恐ろしいことはない。しかし、この至極特定の恐怖の中に、さまよいとよばれる変わりやすい力はすでに介入している。その作用がドラマトゥルクの日々の作業をまさに突いてくる。ドラマトゥルクが絶えず非難されるのはその点においてである。間違っている。きちんと見えていない。ちゃんと踊れない。正しい決定ができない。きちんと分からないなど。

実現化のプロセスの沸点の最中、初演が迫り、作品が未だしぶとく曖昧模糊の中にあるときなど、はっきりと分からないことを非難されたときにどのように対処するかを学ぶことは、ドラマトゥルクとして誰しもが通り抜ける洗礼とも言える。私自身、そういった瞬間を当然経験していて、私が「しっくりいかない」と指摘する箇所について、それなら自分が踊るようにとダンサーに迫られることがある。その場合、前に出て当然ながらにお恥ずかしい姿を披露し、踊り方が無論分からないながらに踊り、皆が腹を抱えて笑い、分からないながらに無知無能をさらけ出して踊ろうとすることにより、滞っていたものが解消され、作品を実現化する上で続きの道筋が見つかるのだ。ただし、ダンスドラマトゥルクとして手がけてきたすべての作品において、私にとって分からないという真の恐怖は性質上、幾度も繰り返されるにもかかわらず、常にそれぞれの作品ごとに違うため、幾度でも対処し続けなければならない。そして分からないという恐怖に対処することが「型にはまること(cliché)」を防ぐ手立てなのである。

ジル・ドゥルーズ(Gilles Deleuze)が『感覚の論理』で指摘するように、表象の助けとなる全ての見かけ上の空白空間 (白いキャンバス、白い紙、空の舞台、ダンススタジオ)は既に埋め尽くされていて、あらかじめ埋まっており、実際に無数の既存の型(cliché)であふれかえっているため、何か他のことが起こり得るには、まずそれらを取り除かなければならない(Deleuze 76-78)。表象的空間が既存の型で埋め尽くされていることは、特にダンスの世界でまん延しており、舞台上のみならず、ダンサーの身体までが既製のテクニックとジェスチャーに満たされ、ダンス作品とは何か、芸術作品とは何か、もしくはどうあるべきかという一定の先入観を満たすための既製品であるように感じられる。身体に、知覚に、あるいはまだ存在しない作品にまで既存の型で満たすものをかき回すこと(scramble)こそがドラマであり、恐怖なのである。したがって、迷うからこそ、何かほかのものが起こりうるかもしれないのだ。ドゥルーズが記すように「『空白』の画布はすでに埋まっているため、画家としては画布の中に入るしかない。このようにして、画家は既存の型のなかに入る・・・。画家が〔画布〕の中に入ろうとするのは、とりわけ彼自身がやりたいことを知っているからである。しかし、彼を救うのは、どうやってそこにたどり着けるかを知らないことである。彼はやりたいことのためにどうすればよいのか分からないのである 1〔下線部はレペッキによる〕」。


1 Gilles Deleuze, The Logic of Sensation, Trans. D. W. Smith, University of Minnesota P, 2003, p.78.

Material from: André Lepecki. “Note Six, Errancy as Work,” published [2015]
[Palgrave Macmillan] reproduced with permission of SNCSC.

以下の文献より抜粋:
André Lepecki. “Note Six, Errancy as Work,” Dance Dramaturgy : Modes of Agency, Awareness and Engagement, ed., Pil Hansen and Darcey Callison, Palgrave Macmillan, 2015, pp.61-63.

翻訳:辻井美穂

アンドレ・レペッキ

ニューヨーク大学パフォーマンススタディーズ教授・学科長。メグ・スチュアート(Meg Stuart)「Damaged Goods」(1992-1998)のドラマトゥルク。「IN TRANSIT」フェスティバル(HKW、ベルリン)キュレーター(2008、2009)。1960年代以来、「MOVE」展「Dance and Visual Arts」アーカイブ(Hayward Gallery)キュレーター。アラン・カプロー(Allan Kaprow)『18 Happenings in 6 Parts』(Performa 07)AICA Award受賞。『Points of Convergence: Alternative Views on Performance』(共編Marta Dziewanska、2015)、『Dance』(2012)、『The Senses in Performance』(共編Sally Banes、2007)、『Of the Presence of the Body』(2004)の編集者。著書『Exhausting Dance: Performance and the Politics of Movement』(2006)は13ヶ国語に翻訳されている。その他に『Singularities: Dance in the Age of Performance』(2016)。

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