中島那奈子とガブリエレ・ブラントシュテッターの対談
中島那奈子:今日は2023年8月8日です。本日は、ベルリン自由大学のガブリエレ・ブラントシュテッター教授のオフィスにお伺いし、ドイツ語圏文化におけるダンスとドラマトゥルギーについてお話を伺いたいと思います。本日はお招きいただき、誠にありがとうございます。
ガブリエレ・ブラントシュテッター:こちらこそ、ありがとうございます。光栄です。
中島:まず最初に、ドイツ語圏のダンススタディーズの専門家であるブラントシュテッター教授にお伺いしたいことがあります。現在、ダンスにおけるドラマトゥルギーについての議論が盛んに行われていますが、私は日本語や英語、ドイツ語圏だけでなく、ダンスドラマトゥルギーに関する歴史的な瞬間を迎えているという印象を持っています。
ライムント・ホーゲとピナ・バウシュ
最初の質問はライムント・ホーゲとピナ・バウシュに関するものです。ライムント・ホーゲはパフォーミングアーツの歴史上、初代のダンスドラマトゥルクと見なされています。ドラマトゥルクのカタリン・トレンチェーニは、1979年にホーゲの役割が名付けられたのは、ドイツにはドラマトゥルギーの伝統が長くあったからだと述べています。「ダンスドラマトゥルギーはライムント・ホーゲから始まった」という見解について、どのようにお考えですか?また、ホーゲとバウシュのコラボレーションにおいて、ダンスドラマトゥルギーに関しては、どの点が特別だったのでしょうか?
ブラントシュテッター:ダンスドラマトゥルギーの「最初の時点や状況」を正確に特定することは難しいと思います。しかしながら、ピナ・バウシュと共に活動したドラマトゥルク、ライムント・ホーゲの位置づけが重要である点については同意できます。ここで問うべきは、なぜドラマトゥルギーがダンスの世界においてこれほど遅れて登場したのか、ということです。ドイツでは、演劇においてはドラマトゥルギーの伝統は長い歴史を持っています。この問いを次のように言い換えることもできるでしょう。ライムント・ホーゲのドラマトゥルギーの概念とは何であり、それがどのようにしてピナ・バウシュのカンパニーと結びついていたのか?注目すべきは、ホーゲが「二重の伝達」という実践を行っていたという点です。一つ目に、ホーゲはドラマトゥルクとしてリハーサルプロセスに寄り添い、カンパニーがピナと共に作品を創作する過程で発展させてきた様々なシークエンスを観察していました。一方で、そうしたリハーサルプロセスから生まれた場面をどのように想起し、再現するかという問いも常にありました。ホーゲは、アーキビストのように執筆と記録を行い、生きたアーカイブを構築していました。前日や一週間前に何が起こったのかを反映し、再考することで、この「グループ内での伝達」の実践と概念を生み出したのです。ホーゲの仕事は、創作プロセスに本質的に焦点を当てていました。彼はダンサーたち、ピナ・バウシュ、舞台監督、そして制作プロセスに関与するすべての人々と協働していました。
この「二重の伝達」のもう一つは、カンパニー内のミクロレベルのプロセスに留まらず、それを外部の視点からも反映し、より批判的に眺めることにありました。この視点から素材やアイデア、作業プロセスを明確にすることを目指していました。このマクロレベルでの作業自体が、既に構成の一環であると言えるでしょう。このようにして、ドラマトゥルクとして構成プロセスをサポートしました。よく知られている通り、ピナ・バウシュは初演直前まで作品に取り組み続けることが常でした。さらに、初演後であっても作品は「完成」することなく、依然として発展のプロセスにありました。作品のタイトルでさえ、初演後に決まることがありました。ホーゲはこの「進行中の作品」に関わり、しばしば自身のアイデアやコメントを提供し、刺激を与えていました。
ドイツにおけるダンスドラマトゥルギー/ドラマトゥルク
中島:ホーゲの人格のこの二面性が、彼をドラマトゥルクという職業に導いたという点が、私には非常に納得できます。彼のダンスへの最初の興味やジャーナリストとしてのキャリアは、ダンスを見て、ダンスに携わる方ことへの道筋を作りました。まるで彼自身の人格と才能を駆使して、ダンスドラマトゥルクの実践を制度化したかのようです。あなたは、第二次世界大戦後にホーゲが言語についても考察したことに触れられました。私の次の質問は、ドイツのパフォーミング・アーツにおけるダンスドラマトゥルギーとドラマトゥルクの機能についてです。演劇のドラマトゥルクの分野では、常にドイツの戯曲と演劇を活性化させ、国家的価値を確立した、ゴットホルト・エフライム・レッシングの時代にまで遡り、ハンブルク国民劇場の存在が取り上げられます。一方で、ダンスの分野では、ピナ・バウシュがダンスを解放し、再定義し、ダンス、パフォーマンス、ポストドラマ演劇の境界を揺るがしたと言われています。ドイツにおけるダンスドラマトゥルギーやダンスドラマトゥルクの制度が、なぜパフォーミング・アーツと密接に結びついているのか、具体的な理由をご存知でしょうか?
ブラントシュテッター:ドラマトゥルギーを18世紀の歴史に結びつけることが重要だと思います。なぜなら、ドラマトゥルギーの考え方がこの時期に根付き始めたからです。レッシングが演劇と戯曲に関する著作で確立した考えでは、ドラマトゥルギーは、ドイツ語で上演され、ドイツ語を話す俳優たちのために書かれる国民演劇のためのアイデアでした。それまで演劇はフランス、イタリア、英国、すなわちシェイクスピア的伝統や、もちろんギリシャの伝統の影響を強く受けていたのですが、演劇を国家というアイデアのための戯曲として確立しようとしたのです。しかし、当時は、フランスでのパリのように国の首都に「国立劇場」を拠点として置くといったアイデアは存在しなかったのです。ドイツはまだ多くの小さな諸邦や小国群、都市国家に分かれており、それぞれの都市に独自の劇場がありました。したがって、啓蒙時代の人物であるレッシングにとって、ドラマトゥルギーの概念は、演劇が教育と娯楽の場として、誰もがアクセスできる形で存在すべきであるという考えに根ざしていました。ドラマトゥルギーとして複雑な概念です。以後に起きたことを振り返ると、国家単位ではなく、むしろ地域単位で起こったことが興味深いです。ドイツの劇場は制度的に言うと、どの小さな都市にも独自の劇場、オペラ、バレエがあるのです。
このような地域を基盤とするシステム、すなわち国家単位ではなく、より地域的な制度において、オペラやバレエ、そしてダンスドラマトゥルクの概念が生まれました。近代の初頭以降、これらの地域機関は、モダンダンス、ポストモダンダンスまたはコンテンポラリーダンスを自らの劇場の一環としたいと考えました。一方で、近代、アヴァンギャルド、ポストモダン演劇の時代には、いわゆる(訳註:公共劇場でない)フリーシーンが存在します。そして、このフリーシーンでは、プロジェクトベースの振付プロセスとそれに従事して入れ替わるダンサーやパフォーマーの間で、取りまとめる役割を担うドラマトゥルクを希望し、むしろ必要とする動きが高まりました。このプロジェクトは、約一年ほどの短期間で実現しなければならないため、ドラマトゥルクは、間断なくその全ての集まりの狭間に立ってプロセスに関わりながら、共感的かつ批判的な目でその過程を見守る存在です。
この批判的な鏡の役割と、プロダクションから「離れて」見ることができる能力は、極めて重要です。ドラマトゥルクは、観客の「第一の目」であり、観客の一人という目線で見て、与えられた作品の構造をどのように変更すべきかについてフィードバックや提案を行うことができます。これが私が言うところの「二重の視点」の概念です。
中島:ドラマトゥルギーの効果が作品に対する解釈を豊かにする点について言及されました。それは本当に素晴らしいことだと思います。このことは、理論と実践の問題につながります。
理論と実践
中島:ダンスドラマトゥルギーは、よく「動きを理解すること」として説明されます。ダンスドラマトゥルクは、振付の動きを理解するために、リハーサル過程でパフォーマンスを分析しようとします。先ほど、この絡み合う要素と、理論と実践が交わる地点におけるドラマトゥルクの批評的な視点について言及されました。ダンス理論の専門家として、どのような理論的言説が振付シークエンスに適用可能だとお考えですか?逆に、理論的研究と実践的プロセスの相互関係という観点から、どのような動きのシークエンスをダンス理論に適用できるとお考えですか?一部のドラマトゥルクは振付の動きを理論化する準備ができています。これらの理論的な課題は、ご説明いただいた歴史的背景としての劇場システムとはまた別の異なる側面だと思います。
ブラントシュテッター:まず最後の質問に最初にお答えしましょう。「どのような動きのシークエンスをダンス理論に適用できるか?」という問いに普遍的ないし一般的な答えはありません。しかし、これは非常に重要な問いです。つまり、理論はどのように実践と関わり合うのか、ということです。ドラマトゥルクは、理論的な領域と実践的な領域の「間」に立つ存在です。ドラマトゥルクは、理論の観点から構成の構造を分析する能力を備えていなければなりません。そして同時に、実践全体を理解し、その複雑さを翻訳する能力も必要です。ここで言う「実践」とは、単に作品のリハーサルには留まりません。ウォーミングアップやトレーニングなど、ダンスに関連する多様な実践が含まれています。
「ダンスの実践」という問いの背後には、理論的な問いが存在します。それは、ダンサーのトレーニング背景が制作プロセスにどのような影響を及ぼすのか、という問いです。優れたドラマトゥルクであれば、それを洞察し、それを活用することができます。そして、その洞察こそが、理論と実践を結びつける一つの方法となるのです。
しかし、別の観点では、ジェンダー理論、クイア理論、脱植民地化の視点、障がいを持つ/健常な身体の問題といった他の理論的な言説との接点を見つけることも求められます。また、それは、メディア論、ムーブメントテクニック、文化的伝統、あるいはダンス特有のムーブメント技法についての考察に結びつく場合もあります。
また、問いが空間や領域、または領域的な関連に関する理論に向けられることもあるでしょう。それは、生態学的な問題とも結びついているかもしれません。すべての人が環境とどのように関係を築き、つながりを持つのか、そして生命の状態や他の種の生態に対してどの程度の意識を持っているのか。これは、ムーブメントやパフォーマンスの実践に関連するもう一つの理論的分野です。
可能性は非常に多岐に渡ります。それこそがドラマトゥルクとしての挑戦であり、同時に最も興味深い部分だと思います。つまり、これらの挑戦を理解し、それを実践に関連付けて最も興味深い理論を選ぶことです。それこそが実験的なやり方です!既に存在するものをただ確認するのではなく、むしろ皆の通念に挑戦を仕掛けたり、複雑化したりすることで、ダンサーたちが自分たちにとって新たな領域を発見する手助けをします。
ドラマトゥルクの倫理的な役割は、なおのこと重要です。ドラマトゥルクは、新たなレベルやアイデアを確立することができる人物であり、それは美学的な側面だけではなく、倫理的な観点にも関わります。
共同作業のプロセス
中島:なるほど。それがドラマトゥルギーのポリティカルな次元であり、現実に対する私たちの理解とどう向き合うかということですね。理論の楽しさはまさにそこにありますね。では、ムーブメントや共同作業のプロセス、そしてポストモダンダンスの歴史に戻りましょうか?
ドラマトゥルギーに関する議論は、様々な舞踊文化の古代の歴史にまで遡ることができますが、ある評論家たちは、ダンスドラマトゥルクの役割がヨーロッパと米国で同時期に登場したと主張しています。例えば、ピナ・バウシュによるポストドラマ演劇的形態や、マース・カニングハムとジョン・ケージ、そしてジャドソン教会派によるポストモダンダンスの形態です。その共同作業の方法や、特殊な即興的手法がダンスドラマトゥルクの誕生に関連していると思いますか?
ブラントシュテッター:米国のポストモダンダンスやピナ・バウシュについてのダンス研究を進める中で、あなたはこの興味深い一致に気づかれたのかもしれませんね。共同作業のプロセスを最初から実施することが非常に重要であり、それなしでは彼女ら、彼らが到達した成果は得られなかったでしょう。それでも、そのアプローチの仕方には多くの相違点がありました。マース・カニングハムとジョン・ケージは、ピナ・バウシュが彼女のカンパニーで行っていたコラボレーションとは異なる方法でダンサーたちと協働していました。しかし、おそらくこれはドラマトゥルクにとっての出発点とも言えます。例えば、カニングハムがどのように働いていたかを見ると、彼はデヴィッド・ヴォーンと協働していましたが、ヴォーンのアプローチはピナ・バウシュと組んでいたドラマトゥルクたちのものとはかなり異なっていました。ヴォーンは一種のアーキビストとして、ケージとカニングハムという2人のユニークなアーティストの作品やコラボレーションのアーカイブを作り上げました。さらに、ロバート・ラウシェンバーグやジャスパー・ジョーンズといった他の分野のアーティスト、あるいはモートン・フェルドマンのような音楽家が協働していましたが、それぞれが自律性を保っていました。その自律性とは、各自が自身のアイデアを生み出して共有するだけでなく、それを舞台上でのみ一体化させるという、当時としては非常に興味深く新しい考え方でした。
ドラマトゥルクの仕事はこの創造的プロセスの一端ではなく、パフォーマンスを再創造する上で重要でした。ヴォーンは、素材や写真、文書、楽譜を収集し、ソロや作品全体の部分部分を再現するための基盤を築きました。これが共同プロセスにおけるドラマトゥルギーの新たな長期的効果の一例です。
ピナ・バウシュとライムント・ホーゲのコラボレーションでは、新たなものが生まれました。ドラマトゥルクは制作プロセスの中で、演出家に対する「第三の位置」を占めるようになったのです。バウシュと共に、ドラマトゥルクはアイデアを推進し、実験的なアプローチを取り、身体的プロセスに言葉を与える役割を果たしました。したがって、それは翻訳や伝達の面での「第三の位置」のようなものです。ドラマトゥルクの任務としてリハーサルに付き添い、批判的な視点を提供することに加えて、彼らはメタ的次元の言説を作り出さなければなりませんでした。これはホーゲが行ったように記憶と向き合うことを意味します。彼は後にバウシュとの仕事と彼女の働き方について2冊の本を執筆しました。ホーゲはドラマトゥルクとしての役割の中で、作品の発展プロセスや、インスピレーションや伝達の方法において「転換者」やトリックスター的な要素を取り入れ、また記憶を作品での「亡霊的なもの」として扱うことを促進しました。ドラマトゥルクはこのような共同作業の一環でありながら、例えば共著者として名前が特別に挙がることはありません。彼は制作の中で、現れるようで現れない、一種の儚い「間(あいだ)」の存在なのです。
ダンスドラマトゥルギーと映画
中島:私たちドラマトゥルクも、ある意味、転換者、伝達者、そして亡霊のような役割を果たしているのだと思います。アーキビストとしての役割についてご説明いただきありがとうございます。ドラマトゥルクの役割には、歴史や歴史研究においてもっと触れるべき側面があると思います。というのも、ドラマトゥルクに関する多くの学者は、この部分を省いて、議論に含めることを避けがちだからです。それは芸術的実践にも関わってきます。そしてもちろん、作品を作るだけでなく、その編集形式にも関係しています。これは映画のモンタージュ技法と似ていると言えるでしょう。ピナ・バウシュのダンスシーンの編集方法は、映画におけるモンタージュ技法に似ていると述べられています。同様に、映像作家としても認知されているイヴォンヌ・レイナーは、自身のダンス制作を映像制作に適応させ、その逆も行っています。彼女のダンスは映画に変換される。レイナーは自分の過去を振り返ろうとするし、またその過去も彼女自身に立ち戻ってくるのです。つまり、同じ素材がレイナーの映画作品では繰り返し使われ、それが彼女の最近のダンス作品にもなっていきます。私の考えでは、このダンスと映像のクロスオーバーは、ピナ・バウシュとイヴォンヌ・レイナーの両者にとって新たなダンスドラマトゥルギーの領域を開いたと思います。その点、どう思われますか?
ブラントシュテッター:その通りだと思います。私は、これが芸術間の非常に複雑な相互関係と、コラボレーションに関わる問い、すなわち誰がどの役割を果たすのかという問題のもう一つの側面なのだと思います。私はずっと映像とダンスの関係の始まりに非常に関心を抱いてきました。なぜなら、20世紀初頭における、ムーブメントを取り扱う二つの重要な芸術形式であり媒体である、映画とダンスの並行的な進展が見受けられるからです。同時期にダンスもまた、過度に型にはまった伝統から解放されていきました。1900年頃のダンスは、ムーブメントに対するアプローチを変え、新たな考え方を取り入れ始めたのです。映画とダンスは、20世紀初頭の主なムーブメントを取り扱う芸術形式であり、その時期に関する文献も多くあります。その並行的発展は、ロイ・フラーが映画を作り、彼女自身がダンサーだった時点で始まっています。それは技術的革命でもあり、照明や流れるような動きとの関わりがありました。その時点で、映画的な構造としてカットやコラージュ、モンタージュがダンスに取り入れられました。ピナ・バウシュやイヴォンヌ・レイナーは、この前衛的な遺産を受け継ぎ、ポストモダンのアイデアに持ち込んだのですが、ダンスにおけるポリティカルな概念においては異なるアプローチを取っています。
これは映画とダンスという二つの芸術形式の間での対話ややり取りだと言えるでしょう。また、ジェンダーに関する表明や、人間の身体に何ができるかに関係しています。映像は、ダンスの中で身体が空間や光とどのように関わるかを示す上で別の可能性を提供します。映像では簡単に身体を消すことができるのに対し、舞台では必ず舞台を退かなければなりません。イヴォンヌ・レイナーは映像の方へ行き、そしてまたダンスに戻ります。そして、彼女は少し皮肉的なジェスチャーで両方を行います。彼女のバランシンのバレエ『アポロ』を再解釈した作品で「ピンク・パンサー」が「アポロ」に共だって登場します。彼女はそれを映画的な視点から面白おかしく取り上げているのです。
ダンスという芸術を映画的な視点で新たに実験的に見ることに関心を持ったのもピナ・バウシュです。『嘆きの皇太后』や他の映画のプロジェクトにおいて、彼女はこの媒体を取り入れていました。ヴィム・ヴェンダースのような映画作家が彼女と親しくしていたことを私は嬉しく思っています。
ダンススタディーズにおけるドラマトゥルギー
中島:映画とダンスの間のこの芸術的影響について、ドラマトゥルクの誕生と関連付けて考えていました。今、最後の質問として、将来の制度化についてお話ししたいと思います。ドイツ語圏の大学には「応用演劇学」というプログラムがあります。最近、ドイツの大学のダンススタディーズプログラムではダンスドラマトゥルギーに関するコースが増えているようです。ダンススタディーズは、すでに紹介されたような、さまざまな言説と知識を含む歴史的な学問ですが、ダンススタディーズの未来、特にダンスドラマトゥルギーとの関連についてはどうお考えですか?
ブラントシュテッター:はい。演劇学では、学士号や修士号の一環としてドラマトゥルギーを学べるプログラムがあります。いくつかの大学の演劇プログラムまたは演劇学プログラムで見つけることができます。しかし、ダンスに関しては同じとは言えません。ダンスドラマトゥルクを大学で導入しようという試みは何度かありましたが、まだ確立されていません。ゼミは依然として単発的なもので、体系的なプログラムが欠けています。ダンスでは、ドラマトゥルギーの理論と実践よりもキュレーションの議論が公的なプログラムで多く扱われています。近年、ドラマトゥルギーの考え方はキュレーションの考え方に取って代わられました。しかし、キュレーションとドラマトゥルギーは異なります。キュレーターは、創造者やプログラム作成者のような存在です。例えば、キュレーターは、経済的圧力や制度的なタスクの比重が大きいフェスティバルの開催に従事します。優れたキュレーターとは、ダンス界で何が起きているのか、そしてどのようにテーマを見つけるかについて見識を持っている人です。一方で、私はダンスドラマトゥルギーの教育プログラムが不可欠であると考えています。それでも、一つ問題があります。まだ実現していない理由はそこにあるのかもしれません。その問いにまだ答えはありません。ドラマトゥルギーにおけるノウハウをどう教えるか、それはプロジェクトごと、作業ごと、パフォーマンスを作り上げる過程ごとに変わるものです。このように移ろいやすく開かれたプロセスに基づいてシラバスや修士課程の枠組みを作ることはほぼ不可能です。直感をどう教えるのでしょうか?直感とは、長い実践経験の果てに備わるものです!それは状況に応じた知識です。したがって、ドラマトゥルクはそれぞれ違うように判断したり、リハーサルの中で異なるアプローチを取るかもしれません。だからこそ、私はダンスドラマトゥルギーを「水に書くようなもの」と見なしています。それは非常に儚い実践の方法であり、芸術の感覚的・知的状態を様々な次元において反映し、記述として翻訳し伝達することです。ドラマトゥルクは一種の精霊のような存在です。最終的にドラマトゥルクがすることは、パフォーマンスの終わりに目に見える痕跡を残さないからです。それでも、その行為は、もしかしたら本やプログラムに痕跡を残すかもしれませんが、作品そのものにはなりません。それにも関わらず、ドラマトゥルクは何をすべきか、そしてどのように決定内容を組み替え、それを未来の世代にどう手渡すのかに関する、身体化された知識と経験を全体的に積み上げていきます。ドラマトゥルギーの学びの形式が確立されているわけではないため、大学の学科プログラムを作るには、理論と実践のバランスを取った膨大な教育的知識がどうしても必要です。それには、試行錯誤を通じて自身の方法を見つけることが指針となります。それを始めて、再考することには価値があります。
中島:簡単なことではなくとも、私たちが前進していることを知って嬉しく思います。それ故に、ダンスプログラムにはまだ確立されていないのでしょう。そのように課題があっても、ドラマトゥルギーを教え、学ぶことは可能です。
ブラントシュテッター:はい。もしかしたら、それが次のあなたの課題かもしれませんね。
中島:素晴らしい洞察をたくさんいただき、ありがとうございました。新たな視点を提案していただき、とても感謝しています。ありがとうございました。
ブラントシュテッター:この興味深い質疑応答とその後の対話をありがとうございます。これを皆さんに読んでいただくことで、何かを前進させることができるでしょう。
本研究はJSPS科研費 JP21K00131 、早稲田大学特定課題研究助成費(課題番号 2024C-334)による研究成果の一部である。