中島那奈子とアンドレ・レペッキの対談

中島那奈子:今日は2022年4月19日です。本日はニューヨーク大学のアンドレ・レペッキ教授のオフィスにお伺いしています。インタビューをお引き受けいただき、ありがとうございます。レペッキさんは、ヨーロッパやアメリカで、多くの実験的なアーティストと協働されてきましたが、まずご自身の活動について簡単にご紹介いただけますか?

アンドレ・レペッキ:もちろんです。私がドラマトゥルクとしての活動を始めたのは、ある意味偶然でした。正式な訓練を受けたわけではありません。私はポルトガルで育ちました。私の世代は、1974年の革命後、つまりポルトガルが長らく続いたファシズム的植民地政権から脱却し、欧州連合に加盟した時期に青春を迎えた最初の世代でした。それまでのポルトガルは、アフリカでの植民地戦争や厳しい抑圧体制の下、他国、特にヨーロッパと隔絶されていました。そのため、私たちの世代は18―19歳のころ、文化や芸術の爆発的な発展に触れるとともに、自由と可能性を強く感じるようになりました。

高校を卒業し、大学進学を考える中で、人類学者になりたいと思っていて、最終的にリスボン・ノヴァ大学で文化人類学を専攻しました。ただ、大学入学前から親しい友人たちの多くがダンサー、振付師、音楽家、ビデオアーティストでした。当時、私たちはまだとても若かったのですが、これらの分野をミックスして一緒に作品を創りたいという願望を抱いていました。

当時、政府からの補助や助成金などは全くありませんでしたが、それでも私たちは可能な限り集まり、想像力を働かせて創作しました。音楽家は即興で演奏し、ダンサーも即興で踊る。ある者は映像を制作し、別の者は衣装をデザインする。私たちは一緒に本を読んだり映画を観たり、ジャズや演劇、ダンスの公演に足を運んだりしました。私が特に面白いと感じたのは、この初期段階において自分がダンサーでもなければアーティストでもなかったことです。そして、アーティストになりたいとも思っていませんでした。ところが、振付家のフランシスコ・カマチョからダンサーやアーティストのグループに誘われたときは驚きました。なぜ私をこのグループに誘うのかと尋ねたところ、彼やヴェラ・モンテロ、ジョアン・フィアデイロ(現在ではポルトガルで非常に有名な振付師たち)がこう答えたのです。「君がダンサーじゃないからこそ面白いんだ!君が興味を持っているさまざまなこと、君が読んでいる理論的なものが私たちの作品を考える助けになるかもしれないから。」

それが私に起こった最初の出来事でした。プロのアーティストとして駆け出しだった友人たちに、私がアーティストではないからこそ活動に誘われたのです!ドラマトゥルギーをメソッドとして考える上で、その招聘の根拠がとても興味深いです。その当時、私は人類学で、現地で実際にフィールドワークをする人類学者や民族学者たちが、研究対象のグループやコミュニティに招かれることについて学んでいました。人類学者として、密接に接触しながら批判的な距離を保つ方法を学ばなければなりません。研究対象の集団に対して感情的な近接性はあっても、完全にそのグループに溶け込んではなりません。批判的な距離を保ちながらも非常に近くにいる必要があるのです。

その時、そのバランス、近接的な距離、あるいは遠い親密さを私はドラマトゥルクとして維持することに非常に興味を持ちました。私はそのアーティストたちの友人でしたが、同時にアーティストたちが作り出しているものからは一定の批判的距離を保たなければなりませんでした。それをドラマトゥルギーのメソッドとして、振付構造のみならず、社会的な分析においても適応することがとても面白かったのです。密接に接していても客観的であることが可能だということを学ぶこと。緊密性の中での客観性です。

ただ、話を続ける前に、この用語自体を定義しておく必要があるかもしれません。というのも、ドラマトゥルギーという言葉は、特に18世紀末のレッシングからのドイツ演劇の伝統に由来します。

また、ドラマトゥルクという言葉は、ポルトガル語などいくつかの言語では劇作家を指すこともあります。しかし、ドイツ演劇の伝統においてドラマトゥルクは、戯曲の上演時に意味がどのように形成されるかを追い、演出が元の戯曲に即した意味構造を持つように監督する人物です。ここではあくまでも、ドラマトゥルギーの伝統的な考え方に駆け足で触れるにすぎませんが。私がポルトガルの振付家たちと行っていたドラマトゥルギーは、そうした伝統的なドラマトゥルギーとは全く関係がない点を挙げておきます。なぜなら、その制作には元となる戯曲やテキストが存在しなかったからです。つまり、皆が最終的な作品がどうなるかを探りながら進んでいき、ほぼ何もないところから、または非常に少ない素材から作り上げていたのです。

駆け出しの当時、私は「ドラマトゥルク」と称されることはありませんでした。ジョアン・フィアデイロは私を「リサーチャー」と呼んでいました。私はヴェラ・モンテロとも一緒に仕事をしました。かつて彼女のソロ作品の舞台美術を手がけたことがありましたが、私の仕事は多くの場合「ドラマトゥルクの仕事」でした。そのころ、私はその肩書きを使った記憶はありません。その状態が1992年にリスボンでメグ・スチュアートと出会うまで続きました。1990-91年、メグはフランシスコ・カマチョとカルロタ・ラギドというポルトガルのダンサーとともに、彼女の重要なデビュー作『Disfigured Study』を創作していました。彼女は最初、次のグループ作品の舞台美術を私に依頼しました。舞台美術自体も、実は私はトレーニングを受けていない分野でしたが、ヴェラ・モンテロのソロ作品のセットを作ったことがあり、それは今も踊られています。前述のように、私はアーティストではありません。しかし、メグとの仕事を通して、すぐに私はドラマトゥルクとして働いていることに気づきました。しかし、メグも私も、私がしていたことを何と呼べばいいのか分からなかったのです。そこで、彼女は私を「aesthetic eyes(美学的な眼差し)」と呼びました。これは、ニューヨークのPS122で行った初回のパフォーマンスのプログラムに記載された私の肩書きであり、舞台美術に加えて美学的な眼差しとは!確かに、とても奇妙な呼び名でした。

そして、『No Longer Readymade』というメグ・スチュアートにとって非常に重要な作品の制作の最終段階で、ルーヴェンでリハーサルをしていたとき、クラプスタック・フェスティバルのディレクター、ブルーノ・ヴェルベールに、「あなたの給料を正当化しなければならないが、一体何をしているのか?」と聞かれました。そこで私は彼に説明をしました。私は毎日のリハーサルに参加し、意見を述べ、音楽やテキストを持ち込み、メグとその後に話して、「この部分は削除すべきかもしれない」とか「この部分は別のタイミングで入れるべきだ」とか、フィードバックを提供する必要があることを伝えました。それを聞いてブリュノは、「ああ、あなたはドラマトゥルクだ!」と言ったのです。それに私は大きな安堵を覚えました。私が長い間、行っていたことにようやく名前ををつけることができた瞬間でした。そこで、私はダンスのためのドラマトゥルギー、プロセス・ドラマトゥルギーの仕事をしていたことを知りました。

この肩書きを与えられた後に知ったのは、ピナ・バウシュが1980年代にすでにドラマトゥルクのライムント・ホーゲとともに、同様の制作条件の仕事をしていたとことです。つまり、ダンサーたちが振付家の提案に従って素材を創り、その後振付家が素材を選び、微調整し、一緒に試してみるというプロセスです。このプロセスの中で通常、非常に多くの素の素材が生まれます。もちろん、振付家はダンサーの動きそのものを整理し、洗練させるだけではありません。振り付けは動的な部分に注意を傾ける必要が多分にありますが、作品の進行における「シーン」や「部分」が一貫性を持って展開するように気を配る必要があります。たとえ「一貫性」を持つということが、一貫性のなさを意味するとしても!その意味では、ライムント・ホーゲは、ダンサーたちが創り出した数百時間の素材から選んで、構成するプロセスにおいて、ピナ・バウシュのスタジオでの信頼できる相談相手のような存在だったはずです。ドラマトゥルクとしての「信頼できる相談相手」という役割は非常に興味深いと私は思います。

もう一つ、ドラマトゥルクの仕事に関して気づいたことは、ドラマトゥルクが振付家と非常に密接な協力関係の中で仕事をするとき、もちろん、作曲家や照明デザイナーなど他のアーティストとも協力をするのですが、ダンススタジオでのドラマトゥルクの存在が、著作権とは実際には「機能」であることを示す点です。作者は一人の人物ではありません。作者は、全くもって機能であり、実際には振付家という個人の枠を超えて分配され得ます。どういうわけか1980年代後半から1990年代初頭のヨーロッパでは、その人物、ダンスドラマトゥルクが非常に重要な存在となりました。私は、自分の個人的な付き合いの関係と人類学における学問的訓練をダンス実験の歴史的瞬間と融合させ、スタジオでの実践的アプローチを創出する機会に恵まれました。それはすべて、1980年代から1990年代初頭にかけて行われました。

中島:距離を保つことについて、お話をされました。この問題をさらに掘り下げたいと思います。ドラマトゥルクとしての経験があなたの研究にどのように影響を与えたか、またはその逆はどうでしょうか?スタジオでの仕事と学者としての仕事の間に「起業家精神」のようなものがあると言及されましたが、物書きとしての仕事はスタジオでの仕事にどのように影響を与えていますか?

レペッキ:非常に興味深い点です。それゆえに、冒頭に1980年代から1990年代初頭との関係性を強調させていただきました。しかし、その後、多くの変化や出会いなどを通じて、パフォーマンススタディーズの分野、特にニューヨーク大学のパフォーマンススタディーズ学部を発見しました。当初、私は人類学と霊長類学で博士号を取りたいと思っていました。しかし、リチャード・シェクナーが人類学と強い関係を持っていたこと、そしてそのプログラムで務めていたマイケル・タウシグという人類学者と仕事をしたいと思っていたため、ニューヨーク大学のパフォーマンススタディーズを知ることになりました。私はそこ(ニューヨーク)にたどり着いたとき、まだパフォーマンスの人類学に関わることをするつもりでいました。しかし、到着したらマイケル・タウシグはすでにニューヨーク大学を離れ、コロンビア大学に移っていました。ですので、指導教員がいなくて少し迷っていました。しかし、マーク・フランコがここにいて、ダンス研究者のマルシア・シーゲルもいました。それから1、2年後、バーバラ・ブラウニングが教員として採用されました。その学部には、当時も今も非常に強いダンススタディーズの存在があります。

1993年にはペギー・フェランもここにいて、彼女の最初の本がちょうど出版されたところでした。それが私にとって非常に重要でした。なぜなら、この一連の教授、特にジャック・デリダと仕事をしていたマーク・フランコや、ペギー・フェランが精神分析とフェミニズム理論を扱い、またある意味でデリダとも関わっていたこと、さらに私の修士論文を指導したメイ・ジョセフはポストコロニアル研究に取り組んでいたし、ホセ・ムニョスやフレッド・モートンがクリティカル・レース・セオリー(批判的人種理論)やブラック・スタディーズを取り扱っており、全員が理論に取り組んでいたのです。突然、私はこの教授陣を通じて理論を発見しました。実は、パフォーマンススタディーズに来たとき、私は社会学の方にもっと関心があったので、最初は理論にあまり興味がありませんでした。しかし、理論を通じて、私は美学と芸術の哲学という全く新しい世界を発見したのです。

同時に、1993年から1998年にかけて、私はメグ・スチュアートとほぼ毎年、彼女のダンス作品にドラマトゥルクとして携わっていました。そして、パフォーマンススタディーズ、芸術哲学、批判理論を通じて、ドラマトゥルギーについて考える新たな方法を発見しました。それは、作品がその完全な内在性の中でどのように現れるかが最も重要であると信じるための理論的基盤を私に与えてくれました。

作品の内在性とは、ドラマトゥルクの役割が邪魔をしないこと、あまり多くの意見を述べないこと、振付家やダンサーのために働くのではなく、まさに生まれようとしている作品のために従事するべきだということです。従事していく中で何かしらの地平線に向かっていく、そうでしょう?

そのことはすでにホセ・ムニョスの理論の中で、ユートピアとしての未来性の概念としてありました。しかし、プロセスとしてのダンスドラマトゥルギーに従事していると、突然それが実際のものであることに気づきます。それは比喩ではないのです。何もないところからダンス作品を共作することは、まさに未来性のために働くことに似ています。皆が未来性のために働いているのです。ダンスでは現在が非常に規範として称賛されていますが、実際にはそれはとても移ろいやすいものです。特に即興しているときには。誰も正確に何が起こったのかを知りません。誰も正確に何が起こるかを知りません。決して、どんな瞬間も。即興とはまさしく、知っていないこと、そしてそれでも一緒に行動することです。

何かを組み合わせて編集するように作品を作り上げるとき、何が起こるかを誰も正確には知りません。そのことが私の学問に多大な影響を与えました。というのも、突然、自分の学問はドラマトゥルギーの仕事によって成り立っていると感じるようになったからです。『Exhausting Dance』や『Singularities』(レペッキの著作)を特に読んでみると、そこにあるのは、具体的な作品に細心の注意を払うためのエクササイズです。それぞれの作品は、その作品の限界を超えた無限の可能性の再組み合わせや拡張の微視的な宇宙として扱われています。

私は、ジェローム・ベルやラ・リボット、メッテ・インヴァルセン、ラルフ・レモンなどについて書いた章の中で、実際には彼らの作品を解釈したり説明したりしているのではなく、彼らを拡張したり、翻訳していると本当に信じています。翻訳の語源的な意味で、それらを異なる形のアクションとして発動させることです。ですので、私のダンスやパフォーマンスに関する「理論的」な著作や、ドラマトゥルクとしての実践、さらには展覧会やフェスティバルのキュレーションにおいても、同様の操作を行います。作品と密接に関わりながら、それを超えるだけでなく、その内を通過する方法を一緒に想像するのです。

ジル・ドゥルーズの哲学は、最初に私に自信を与えてくれた道具のようなもので、私は誰かのためにではなく、何かのために、つまりまだ到来していない、まだ存在していない作品のために働くという考えを持つことができました。しかし、ドゥルーズに対する私の関心は、当時のヨーロッパのダンスで起きていた別の動きを実際には鏡のように反映していました。2000年のことですが、その時期のダンス雑誌を読んでみると、ジェローム・ベルやグザヴィエ・ルロワ、ヴェラ・モンテロといった振付家たちがインタビューで哲学者について言及しているのが分かります。彼らが何に影響を受けたかを問われると、必ずしも他のアーティストを挙げるわけではなく、哲学者を挙げていました。そして、実際、その頃のダンスシーンには非常に強いドゥルーズ的な瞬間があったのです。それはときに明示的で、ときに暗黙的ではありましたが、常にどこかで介在していました。たとえば、グザヴィエ・ルロワは素晴らしい自己インタビューを行い、スピノザからドゥルーズ、エリザベス・グロスに至るまで、自らが作品を構成し振付を行う上で助けとなった哲学者を挙げました。

つまり、振付家たちが、哲学を振付の創造のために、非哲学的な対象物に対するインスピレーションの源として取り入れているのであれば、ドラマトゥルクとしては、その振付家たちをサポートするためにその本を読まなければなりません。しかし、重要なのは、これらの哲学書を単に哲学のために読むのではないということです。むしろ、ある種の大胆な読み方をするのです。というのも、哲学者が関心を持っていることに必ずしも関心があるわけではなく、代わりに、振付家たちがそうしているように、ドラマトゥルクとして哲学を取り扱うのです。そして、それは方法論的に非常に、非常に、非常に、非常に面白いことです。通常、多くの人はドラマトゥルクが芸術的プロセスを過剰に知的化していると思うかもしれませんが、実際には芸術的プロセス自体がすでに知的化されているのです。その理論的・哲学的・批判的な仕事は、すでにアーティスト自身によって行われ、進められています。ですから、私たちは皆そのペースに追いつかなければならないのです!これでメソッドについてのご質問に答えられたでしょうか?

中島:先ほどライムント・ホーゲについて言及されたので興味深いのですが、彼とピナ・バウシュのコラボレーションは、他のヨーロッパやアメリカの振付家たちとの経験とはおそらくかなり異なったものだったでしょう。それは私にとって非常に興味深いことです。ドラマトゥルクのメソッドやアプローチはまだあまり文書化されていません。ヨーロッパの実験的タンツテアターにおけるクラシックなアプローチはピナ・バウシュのようなアーティストのアプローチで、こういったものがまずあります。ドラマトゥルクとして、またはドラマトゥルクとして携わることをやめてアーティストとしての立場において、あなたはその作品をどのように考えますか?ライムント・ホーゲの作品には、まだドラマトゥルク的な感受性の痕跡が見られるのでしょうか?

レペッキ:ライムント・ホーゲの芸術作品は素晴らしく、賞賛に値すると思います。しかし、彼の作品が、バウシュと一緒に取り組んでいたときのドラマトゥルクとしての仕事を完全に反映しているかは分かりません。ドキュメンタリー映画の中で、彼がピナ・バウシュと一緒に作業机の横に座っているシーンがあります。そこで二人は、強烈な沈黙を共有していて、それ自体がすでに対話のようです。ホーゲのドラマトゥルクとしての存在には、静けさと自己消失があります。これが非常に重要なのです。最終的には、彼の作品にはなりません。それがドラマトゥルクの立場です。ドラマトゥルクは共同作者ではなく、作家の機能の一部を成します。ただし、共作者になることはありません。確実に違います。

それは非常に興味深い倫理的立場です。作品を助けるために働くということは。ときには、ドラマトゥルクはほとんど化学的触媒のように機能し、プロセスを加速させます。ときには、ドラマトゥルクは鏡のような機能を果たし、起こっていることを映し出します。そしてときには、ドラマトゥルクは愚か者の役を担います。振付家やダンサーが嫌がるような実に悪いアイデアを出すのです。しかし、重要なのは、ドラマトゥルクが友人として居ることです。この「友人」という存在がここで非常に重要だと私は思います。

ホーゲの場合、この感受性が彼自身の作品に転換されるとき、独自の芸術作品に適応されるとき…それがまだドラマトゥルクの仕事であるかどうかは分かりません。ホーゲの場合、彼の作品は、ある意味ではドラマトゥルクの仕事であるはずです。なぜなら、それは非常に詳細で、非常に巧妙で、パフォーマンスのすべての複雑な側面を織り交ぜるからです。しかし、彼のような振付家も他にいます。彼ら自身はドラマトゥルクではなく、ドラマトゥルクと一緒に働いたことすらない振付家たちです。ですので、そのような転換についてどう答えるべきか正確には分かりません。でも、ドラマトゥルクにその後があり得るという点は非常に重要です。ドラマトゥルクとして働き始め、その後、ディレクターや振付家、キュレーター、教授になることは多いと思います。ドラマトゥルギーがどのようにその後のステップを形成するか、導いていくかについて興味深い内容が多いです。

私が展覧会やフェスティバルのキュレーションを始めたとき、確かにある種のドラマトゥルギー的な感受性を活用していたことを自覚しています。細部への注意において、時には特定の機関にとっては細部に注意を払いすぎることもあったかもしれませんが、社会的な文脈から照明や建築的な文脈に至るまで、すべてのコンテクストに気を配ることです。つまり、キュレーターが施設を、中立的なサポート媒体のように捉える場合があります。そこでは、単に絵画を掛けたり、映画を上映したり、パフォーマンスを提示したりするための場として扱われます。しかし、ドラマトゥルクにとって、施設の建築的インフラは、単なる物理的な構造ではありません。それは感情的、美的、政治的なインフラでもあり、微妙な動きや、時に明確な動きによって生きているものとして考えざるを得ないのです。施設にはこうした多次元的な側面が存在し、それらを考慮に入れずにキュレーターとして最終的な決定を下すことはできません。私にとって、これがドラマトゥルギーです。すなわち、手元にあるあらゆる要素を活かして、一つの未来を構成することなのです。

私は、2001年春にパフォーマンススタディーズの専任教員として採用されたとき、最初の3、4年間は、「On Dramaturgy(ドラマトゥルギーについて)」という大学院の授業を教えていました。その授業では、すべての学生にドラマトゥルクとしてプロダクションに参加することが義務付けられていましたが、そのプロダクションは、演劇とダンスに特化される通常のドラマトゥルクの形式に限定する定めはありませんでした。私の学生たちは映画や展示、パフォーマンスアートに従事することができました。ある学生は建築スタジオで働いていました。それが本当に興味深く、その授業では、異なる分野の芸術家たちがどのように構成の課題に取り組むか、それぞれ異なるモードを皆で共有しました。私たちは一緒に、それぞれのプロジェクトから生じる問題に対して、解決策を見出そうとしました。しかし、同時に、展示のためのドラマトゥルギーとは何か、建築家にとってのドラマトゥルクとは何か、演劇のためのドラマトゥルクとは何か、そして小説家や振付家にとってのドラマトゥルクとは何か、共通点を見つけようともしました。それは本当に面白いクラスでした。

中島:それこそがドラマトゥルギーを学ぶことの本質でした。私たちがその授業で学んだとき、協力的な雰囲気の中で、異なるアプローチや芸術のさまざまなバックグラウンドを持つ多くの人々と一緒に取り組むことが中心にありました。こうした協力的で集合的な作業こそが、私が「ドラマトゥルギー的なコラボレーション」と呼ぶものです。このような協力的で共同の形態こそが、ドラマトゥルギーの仕事だと言えるでしょう。

レペッキ:補足すると、私は1980年代から1990年代にかけて、フランシスコ・カマチョ、ヴェラ・モンテロ、ジョアン・フィアデイロ、そしてメグ・スチュアートという4人の振付家と集中的に仕事をしました。この4人は、私が非常に親密に、かつ長期間にわたって最も多く一緒に働いた振付家たちです。確かに、これらの振付家たちとの作業では、ほとんどの場合、ダンサーたちが振付素材の多くを生み出していましたが、当時(そして今でも)、これらの振付家たちには固定したカンパニーがありませんでした。メグ・スチュアートが、もしかしたら固定したカンパニーに最も近かったかもしれませんが、それでもその構成は、各作品の具体的なニーズに応じて常に変化していました。そのため、協力関係はフレンドリーで、即興的なものでしたが、これらの振付家たちは、自身を「固定した集団」の一環として見せることはありませんでした。したがって、芸術的および振付的な意思決定は、すべてのメンバーが平等に発言権を持ち、同じような作家性を共有する芸術的な集団とは異なる形で行われていました。結局のところ、これら4人のケースでは、振付家、ダンサー、そして他のコラボレーターとの間で活発な会話や議論が行われたとしても、最終的な決定は非常に明確に振付家に委ねられていました。

つまり、例えばリヴィング・シアターのような集団とは違います。リヴィング・シアターでもジュリアン・ベックとジュディス・マリーナがいたので、どのようにしてこの二人と集団的に決定がなされたのか、あるいは果たしてされていたのか、私は分かりません。ですから、言うならば、これはアウグスト・ボアールの「被抑圧者の演劇」のようでもないし、コンタクト・インプロヴィゼーションやジャズのジャムセッションのような、皆が同意をしていて、皆がハッピーで、皆が最終的な作品を承認するようなプロセスでもないのです。そういう種類の集団ではないということです。意味は通じますか?

中島:はい。ある種の開かれたスペースですね。

レペッキ:そうです。そこには開かれたスペースがあります。ものを作ることが奨励されていて、信頼の感覚が存在します。そして、深い親密性があります。メグ・スチュアートの例を挙げて説明します。彼女がベルリン・ドイツ・オペラから委嘱を受け、3人のアメリカ人女性振付家による一晩の公演のために作品を制作したときのことです。このとき、メグはいつものようにダンサーたちに即興を求め、素材を生み出すよう求めていました。しかし、そのダンサーとの関係は非常に階層的でした。そして実際、この階層性をダンサーたち自身が要求していたのです!ほとんどのダンサーたちは実際、「あなたが振付家なのだから、ムーヴメントを指示してください」といった態度を取っていました。そしてもちろん、そうした要求に問題があるわけはありません。ダンサーにはそのように指示を求める権利がありました。なぜなら、それがバレエ団で期待される創作上のプロトコルだったからです。

中島:英国のドラマトゥルクネットワークの、カタリン・トレンチェーニなどが、ダンスドラマトゥルクがどのようにして台頭したのか、そしてダンスドラマトゥルギ―がいつ始まったのかについて議論しています。私は、ダンスがオルタナティブな発展を目指していた歴史的な時期に、その起点が関連しているのではないかと考えています。なぜなら、民主的で集団的な形式を取り入れることで、新しい形態のダンスが一緒に創造されていったからです。この新しいダンスの形式が一緒に創られた後に出てきた具体的な質とは何だったのでしょうか?

それは、ポストモダンのダンスということかもしれません。ジャドソン・ダンス・シアター(1962-64年)では、アーティストたちが一緒に住み、協働していました。米国の文脈では、オルタナティブな協働関係、友情、アーティストコミュニティ、そしてセクシャリティに対するオルタナティブなアプローチがあります。米国とは対照的にヨーロッパでは、ライムント・ホーゲがピナ・バウシュとともに国営のタンツテアターで活動していました。彼の場合、すでにダンスドラマトゥルクが適応できるような制度的な枠組みが存在していました。さらに、ヨーロッパでは説明がなされ、哲学的な議論や理論的な枠組みが、主流の批評に挑戦し、ダンス作りにおいて米国の観客がダンスドラマトゥルクを迎え入れるための言説の枠組みを提供していました。それでも、ライムント・ホーゲは1980年になって初めてバウシュのドラマトゥルクとして従事し始めたため、ジャドソン時代よりもずっと後のことです。その点について、どうお考えですか?レペッキさんは米国でもヨーロッパでも活動されているためお伺いしたいと思います。つまり、米国の「ポストモダン」ダンスがヨーロッパの「ポストドラマ」的な解釈を引き起こす点において、両方のダンスコミュニティとドラマトゥルクコミュニティをご存じである観点からお伺いしています。

レペッキ:いくつかの点があると思います。ジャドソンの伝統がまさにおっしゃっていることを生み出しているのは興味深いことです。つまり、芸術的プロセスの民主化、特に通常はカニングハムやグラハム、リモンなどの振付家の名前に付随する技術の優位性を打破するようなことです。突然として、複数の技法が存在するようになりました。広義のダンスシーンに多くの技法が存在したわけではなく、むしろ同じ作品の中で複数の技法が使われるようになる。さらに、その同じ作品内には非技法も存在します!パフォーマーの中にはその作品の中でダンスができる人もいれば、できない人もいて、それでもその作品の中でダンサーでいられる!それはつまり、各ダンス作品の中で、技法と非技法が複数組み合わされ、また振付家という作者によって言わば柔らかな手が加えられるといったような、技法と非技法の集合体が生まれました。

それでも、ジャドソンの伝統の中では、少なくとも私が知る範囲では、特に米国では、またはニューヨークでは、ドラマトゥルクという概念は存在しなかったと思います。イヴォンヌ・レイナーやスティーブ・パクソン、トリシャ・ブラウンがドラマトゥルクをたずさえていたかは分かりませんが、1960年代や1970年代にその言葉が彼らの作品に結びつけられたという話は聞いたことも読んだこともありません。したがって、ジャドソン時代にはまだそのような環境は整っていなかったと考えていますし、1960年代のヨーロッパのダンスにおいてもそのような状況が当てはまることはなかったと思います。ですので、私がダンスドラマトゥルギーについて語り、1970年代後半から1980年代を通じてのホーゲとバウシュのコラボレーションに繰り返し立ち返るのは、私にとって系譜に基づいています。あなたが私の考えを覆すかもしれませんが、どこかでこのようなコラボレーションを最初に行った人物がいることは確かです。私たちが想定する「オリジナルの起源」には常に別の起源が存在するものです。

私が興味深いと感じるのは、ピナ・バウシュがヴッパータール市立劇場で9時から16時までの仕事をこなしていたバレエ訓練を受けたダンサーたちに質問を投げかけ始めたことです。彼女は作品を創作するために、ダンサーに質問を投げかけるようになったのです。そして、ホーゲがバウシュとのコラボレーションについて記した本の中に、とても美しい瞬間があります。そこでは、バウシュのカンパニーで象徴的な存在となったダンサーについて語られています。このダンサーは、日中の仕事として振付家の指示を遂行する市立劇場のバレエダンサーから、ピナ・バウシュのダンサーへと転身しました。その役割の中で、彼女は振付家からの質問に答え、何時間も劇場で話し合い、即興し、振付家の問いから生まれるシーンを創作するという全く新しい方法を求められました。ホーゲは、そのリハーサル後、このダンサーが劇場を出てヴッパータール周辺の森を走りながら泣いていた様子を思い返しています。泣いて、泣いて、泣いて。なぜなら、彼女はそれに耐えられなかったからです。ダンサーの任務が、振付家の指示を実行するだけの存在から、作品の素材を共に創り上げる存在へと完全に変化したことに耐えきれなかったのです。このダンサーが一日の終わりに劇場を出て、街を走り抜けて泣くという儀式は、ある種の喪のエクササイズのように思えます。それは、すぐに消え去ることになるダンス制作のシステム全体を悼む行為だったのでしょう。ホーゲによるとそのダンサーは、1970年代後半から1980年代後半にかけてのバウシュの伝説的なカンパニーにおいて、最も伝説的で重要なダンサーの一人となりました。

私がこの話を気に入った理由は、バウシュによって新しい振付の創作上のプロトコルが生まれつつあったことを示しているからです。それは超複雑なもので、ダンサーたちは単に即興するだけではなく、振付家からの特定の問いに答える素材を生み出さなければならず、しかもその答えは極めて厳密でなければなりません。それは、ジャドソンの伝統や米国のハプニングやフルクサスのようなイヴェントの伝統とは異なります。そこにはある種の楽しい遊び心があります。また、偶然性の手法や、「何がアートなのか」「何がアートとしてカウントされるのか」に対するデュシャン的な衝動や不敬さもあります。

バウシュはまた別のものを追い求めていました。彼女の作品にはユーモアが残っているものの、リハーサルの過程でダンサーたちが振付素材を過剰に生み出す状況があり、それが少し圧倒しすぎることもあります。振付家は、この膨大なアウトプットの中で、複雑な構成を管理しなければなりません。まさに、そこに違いがあると感じます。ある創造的プロセスに、新たな人物がダンススタジオに入る必要性が生じるからです。この人物は、編集者とも言え、友人とも言え、作家ではない共作者とも言えます。つまり、それがドラマトゥルクなのです。

もちろん、1980年代から1990年代のヨーロッパでのもう一つの大きな違いはマーケットで、特に1990年代には十分に資金提供を受け、ヨーロッパのコンテンポラリーダンスのアイデンティティを模索していました。プロデューサーやプログラマーがヨーロッパ内で新しい市場を探していたため、「新しいポルトガルのダンス」や「新しいスペインのダンス」、そして少し遅れて2000年代初頭に大きな注目を集めた「新しい東欧のダンス」が「発見」されました。この市場拡大の動きは、欧州連合の地政学的な拡張と結びついていました。その市場拡大の流れで、ドラマトゥルクという存在が逆説的に、ある種のプロデューサーによって推進されることがありました。「逆説的に」と言うのは、その当時、企画者が次のようなことを言っていた事例を知っているからです。「あなたはまだ誰も知らない新しい振付家です。しかも、例えばスロベニア、ポルトガル、ルーマニアといった「周縁的」な国の出身です。「我々があなたの新作をプロデュースしますが、最終的な結果に質が伴うようにドラマトゥルクを入れる必要があります」と言ったようにです。

例えば、ヴェラ・モンテロなどは、そのように言われましたし、言われたのは彼女だけではありません。「私たちはあなたの新作をプロデュースしますが、北部からのドラマトゥルクを入れる必要があります。」ここにこの逆説性があります。ドラマトゥルクという存在が、品質保証のスタンプのような役割を担うのです(ヴェラの場合、「北部から」とは、ヨーロッパ北部を意味しますが、ダンスにおける「品質管理」の地政学的側面を考えるとさらに驚くべきことです。ただ、この点はここでは深入りしません……)。いずれにしても、この話をする理由は、ドラマトゥルクの役割がどのように逆説的に利用され得るかを示すためです。

米国では、支援体制が極端に不安定なので、このような経済モデルが実際に現れることはありませんでした。しかし、再び興味深いのは、ラルフ・レモンのような振付家が、彼の創作のプロトコルを変更し、ダンスシアターにより近い美学に移行するタイミングで、ドラマトゥルクのキャサリン・プロフェタと協働し始めたことです。

その後、ヨーロッパでは、次のような声が聞こえ始めた瞬間がありました。「実際、本当に優れた振付家であれば、ドラマトゥルクなんて必要ない。コンセプトがあり、自分が何をしているのか分かっていたら、そんな人を必要とするだろうか?」

中島:このようなヨーロッパ的な系譜はコンテンポラリーダンスにおいて今でも強く残っていますが、時期によってその影響力の強さが異なります。それと同時に、ドイツの市立タンツテアターが米国のダンス制作に与えた影響も興味深いですね。例えば、ライムント・ホーゲがピナ・バウシュと協働したドイツからの影響や、パンデミック後やブラック・ライヴズ・マター運動以降に現れたアイデンティティ・ポリティクスなど、多様な要素が絡み合っているように見えます。つまり、制作プロセスの中で異なる力を招き入れ、共に作業することが重要になっているのかもしれません。

レペッキ:それは重要な視点ですね。新しすぎて私も、まだ完全には分かりません。おっしゃる通り、多くの要因が絡み合っているため、考えの上でも少し複雑です。興味深いプロジェクトとして、デイヴィッド・ウェバー・クレブスが新型コロナパンデミックのピーク時に行ったものがあります。当時、劇場が世界中で閉鎖されている中、デイヴィッドは振付家やダンサー、そしてドラマトゥルクなど約100人を招き、『そして扉が再び開かれたときに』という本を作りました。

この本は非常に興味深いもので、ギリシャから米国まで、さまざまな場所からの異なる回答が集まりました。「劇場が再開されたとき、何が起こるべきか?」という問いに対して、非常に多様な反応が寄せられています。この本は、未来のドラマトゥルギーにとっての一種の万華鏡的なテンプレートを提供していると思います。それは、コレクティブな思考に基づいたものとなるでしょう。

ブラック・ライヴズ・マターという具体的な問題になると、あなたの質問はさらに複雑になります。ただし、より複雑であると同時に、逆に非常にシンプルにもなります。つまり、今日の芸術制作を考える際、構造的かつ制度的な人種差別、性差別、トランスフォビア、階級差別、年齢差別、障がい者差別、そして反黒人主義を無視することは不可能です。また、エコサイドやジェノサイドを考えずに芸術制作を語ることもできません。言い換えれば、ダンスに関わる者にとって、政治を非常に具体的な形で考えざるを得ない時代なのです。具体的な身体や人生、そしてもちろんそれらの動きと直結する方法で考える必要があります。

したがって、未来においてドラマトゥルギーが存続するためには(未来がすでに「今」であることを踏まえて)、マイノリティの運動や政治に対して極めて敏感でなければなりません。それはアイデンティティ・ポリティクスだけでなく、エコロジカルな政治も含みます。その闘いの必然性に目を向けない限り、優れたドラマトゥルクにはなれないでしょう。

これは未来のドラマトゥルギーに関する思弁的なプロジェクトです。今は、振付家たちが作品内の世界を共同構成する方法において、いわゆる「外部の世界」、つまり劇場の壁の外にあるとされる世界が優先的で支配的であり、影響を及ぼしているように思います。

中島:これが最後の質問となるかもしれません。レペッキさんが学部の運営や大学の授業で非常にお忙しくされて居ることは存じていますが、もしも将来的にドラマトゥルクの仕事をする時間があれば、やりたいと思いますか?

レペッキ:私の答えを2つのステップに分けて話します。まず第一に、私は何年も密かにドラマトゥルギーを行ってきました。私のライフパートナーであるエレオノラ・ファビアオンと共に、彼女のパフォーマンスやアクションに関わってきました。エレオノラは街中で活動しており、大きなコレクティブで多くの人々が関わっていますが、その多くはアーティストではありません。そこで私は「外部」の問題を考えながら手伝ってきました。

次に、最近フランシスコ・カマチョによる1997年初演の作品『Gust』に戻るよう招待されました。この作品ではドラマトゥルクとして携わっていました。それは大きな舞台で、14人のダンサーが出演する非常に大規模なプロダクションでした。そして2023年になり、リスボンとポルトの2つの大劇場が26年前に共同制作した『Gust』の再上演(re-staging)を提案しました。

ですので、私はドラマトゥルクとして再び現れることになりますが、再上演の形を取ります。正式にドラマトゥルクとしてクレジットされて関わりますが、あくまでリエンアクトメント(re-enactment)の行為としてです。とても興味深いです。フランシスコも私も年を取りましたし、ダンサーたちも年齢を重ねました。オリジナルキャストの中には、ダンスを続けていない者もいますし、一人は悲劇的に亡くなりました。だから、どうなるのか見てみましょう。実際、ダンスと老いについてあなたがしている仕事との関連でとても興味深いです。その観点から考えると、とても面白いと思います。何が振付を「老いさせる」のか、あるいは年を取ることの美しさは何か。考える内容として非常に魅力的です。大学での授業とのバランスを取るのはとても大変ですが、スタジオに居ることが好きなので、ダンサーたちが朝にウォームアップしているときも私は居るようにします。何も起こっていないはずのときこそ、ダンスにおけるドラマトゥルギーが本当に生まれるときなのです。

中島:それは非常に興味深いですね!プロセスの始まりですね。ありがとうございました。

レペッキ:こちらこそ、ありがとうございました。

本研究はJSPS科研費 JP21K00131 、早稲田大学特定課題研究助成費(課題番号 2024C-334)による研究成果の一部である。

アンドレ・レペッキ

ニューヨークを拠点に活躍するエッセイスト、ドラマトゥルク、インディペンデント・キュレーター。ニューヨーク大学パフォーマンススタディーズ教授、芸術学部リサーチ&スタディセンター副学部長。パフォーマンスとダンス理論に関する多くのアンソロジーの編集を手掛け、著者に『Exhausting Dance: Performance and the politics of movement』(2006年、13カ国語で出版)、『Singularities: Dance in the age of performance』(2016年)がある。HKWベルリン、MoMAワルシャワ、MoMA PS1、ヘイワード・ギャラリー、ハウス・デア・クンスト(ミュンヘン)、シドニー・ビエンナーレ2016などのフェスティバルやプロジェクトをキュレーション。2008年には、アラン・カプローの『18 Happenings in 6 Parts』(ハウス・デア・クンスト委嘱作品、PERFORMA 07にて上演)の共同キュレーションと演出で、Association Internationale des Critiques d'Art(アメリカ部門)の「ベスト・パフォーマンス賞」を受賞。1980年代から90年代にかけては、振付家ヴェラ・モンテロ、フランシスコ・カマチョ、ジョアン・フィアデイロ、メグ・スチュアート/ダメージド・グッズのドラマトゥルクを務める。2008年からは、ブラジル人アーティスト、エレオノラ・ファビアオンの活動にも参加している。最近では、ブリュッセルのXavier Hufkensギャラリーのために、ポール・マッカーシーの初期作品のオンライン展示をキュレーション。

中島那奈子

ダンス創作を支えるドラマトゥルクの先駆者として国内外で活躍。近年は「老いと踊り」の研究をドラマトゥルギーに活かし、フェスティバル、劇場、美術館と連携しながら作品化している。2017年アメリカドラマトゥルク協会エリオットヘイズ賞特別賞。2022年キール振付アワード審査員(オーストラリア)、2019/20年ヴァレスカ・ゲルト記念招聘教授(ベルリン自由大学、ドイツ)、2022年よりファカルティ・ダンスドラマトゥルク(バンフセンター、カナダ)、2024年より早稲田大学文学学術院准教授(舞踊学・ダンスドラマトゥルギー)。編著に『The Aging Body in Dance』(Routledge、2017)、『老いと踊り』(勁草書房、2019)など。ダンスドラマトゥルギーの日英ウェブサイト(www.dancedramaturgy.org)を立ち上げ、日本のドラマトゥルクの活動を支えるドラマトゥルク・ミーティングを2023年に主催。
https://www.nanakonakajima.com/

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